るさんちまんこ

私ってほんと天才

マイ・コメジアン!

私はチアフルな人間です。少なくともそう見えるはずです。本当は心からの絶望と憎しみを滾らせている汚い人間ですが、私を知らぬ人はその奥底を知らないが故に上澄みのしゃかりき明るいのを見てそう言うでしょう。また私をよく理解してくれている友人は、私の奥底の絶望をも理解したうえで、海底の絶望を照らす灯台のごとき私の明るさをよく評価してくれていて、これはうれしいことです。
チアフルですから、私の話し方、目線の配し方、ストーリーテリングの能力、声色の使い方などはきっと特徴的で、実に楽しいでしょう。日々万座大爆笑であります。これは私は意識してやっているのではないので、まさに天恵のものともいえる。天に感謝!

天恵のこの話術は、気心のしれた友人の間では、本当になんの重荷もなく、自然に発揮することができるのです。私は目の前の人を楽しませようという意識などもすることなく、ただ、この愉快なアトモスフィアをかき回しグルーヴに乗っているだけで、何一つ力んでいるところがない。
しかしながら、私はこの話術を自らの天賦の才、ゆえに私はこれを自在にコントロールできる!と心得違いをしてしまったことがありました。コミュニケーション能力という得体の知れない概念が声高に叫ばれ、またその文脈は常に「現代のあらゆる場面に求められている、にも関わらず、現代人からは欠如している」というものだったために、私は思わず、「我その能力持ちにけり!」と得意になってしまった、恥も外聞もあるものか。
実際、いくらかのその能力は、いくつかの場面で発揮できたように思う。けれども、気心も知れていない、私の水面下の絶望などひとつも理解していない人間どもの前で披露する、私の体面ばかりの明るいトーク、中身のない腑抜けの笑いの響き、その場にグルーヴというものはなく、私はドッと疲れたのでありました。実際、私にはそのコミュニケーション能力とやら、屏風の虎のごときものは無かったのです。
私にあったのは、私を理解してくれているし、私を傷つけることはついぞないだろうと信頼のおける仲間たちの前で披露できるアマノウズメの狂気の舞いだ、歓喜の叫びだ。それはみんなの前では勝手に発揮されるものです。自在に発揮できる技のごとく勘違いしてはいけない。もうそんな思い上がりは2度としないと誓うよ。

勝手に戦争させておけ

『親愛なる白人様』第5章に深く傷付いたことは私にすぐにツイートをさせたぐらいだ。辛いことがあると自分で整理がつかなくて、すぐに誰かと共有したくてツイートしてしまう。誰でもいいからこの言葉を聞いていてくれ、なんの反応も期待はしないから私の傷付いた姿を見ておいてくれという気持ちでツイートをする。

時まさしく、シャーロッツビルヘイトクライムが起きたところだ。DWPは公開してまだ一年経たないドラマだ。差別はまだこんなにも蔓延している。むしろどんどん酷くなっている。我々の良識は後退の一途を辿っている。
レジーほどに優秀で、努力家、まさに天才で、しかしそれにおごることなく人当たり良く、悪ぶって、決してスノッブになることはない、詩の才能まで抜群!これほどに、これほどに有り余る才を持ちながら、なお、差別される。外部からやってきた、彼の内面をまったく知らない(ファック・ザ・)ポリスは、彼の肌の色だけを見て銃を向ける。

銃のない日本では起こりえないとお思いか。イエロージャップの私には関係ない問題だとお思いか。私はこの無力感を、しばらく絶望して泣きたいぐらいの、そして強がって友人たちに必死で普通の素ぶりを見せるレジーの姿を見て傷付いた。このシンパシーもお笑いか。

 

言葉が通じない無力をどうしたらいい?立ちはだかるのは言語の壁じゃない。もっと分厚くて、にも関わらず目に見えない壁だ。黒人だから、女だから、あらゆる要素を取り上げて(自分より愚かに違いない!)と信じて疑わない彼らに、何一つ響いていないであろう言葉を吐く虚しさをどうしたらいい?


私はそれを自分のせいにしてしまったね。こんなにも上等な教育を受けさせてもらってなお、私はあなたがたを諭すこともできない、なんたる怠慢、その愚かさよ。そういって自分を責めたね。
どうしたんだ?私はいつも自分を守るためにいくらでも言い訳を考えていたはずだ。どんな問題だって「社会が悪い」という結論まで導くためにいくらでも言葉を弄んだ。それがどうして、突然自罰を思い出す。

何度でも確認をしろ。私は悪くないと。すべて社会が悪いと。私の言葉にろくに耳を傾けない、正しい評価を下さない、それは私の能力の有無ではない。社会が悪いと。
ホモソーシャル、この社会の一番の害悪、すべての争いの諸悪の根源、その男根の連帯で彼らの耳は塞がれる、目は隠される、口からは無数の無意味な弾丸を吐き、私の心を傷付ける。

これ以上自分を責めることなどない。この叡智を広めるのは一度他に任せて、自分を守ることを考えろ。傷付きそうな場からは勇み足で逃げ出せ、彼ら男根の慰め合いに付き合うな、勝手に戦争させておけ。

愚の骨頂

私は愚かだった。そんなことは知っていた。自らを傷付けることをあまりにも恐れたために、私を傷付けないことにかけては揺るぎない信頼をおいている友人で周囲を固め、万全の体制でやっと、命を取り止めていた。そのように弱々しい生命を試すように、どこまで火傷をしないか、その熱さに手を引っ込めないか火で炙るように、痛めつけることを、時折やってのける。
私を突き動かすのは、あいも変わらず憎悪だ。もちろん、愛とか希望が、私の心を満たし、それによって導かれる安寧が、私を善き人間としてこの世に生きながらえさせる。
ところが、獅子身中の虫は騒ぎ、おこりをおこしたように言う、私を取り巻いているこの世は、相変わらず憎むべきであると。その証左を求めて、私はわざわざ、私を理解し得ない男根の肉塊にさえ対峙する。多勢に無勢で、私がいかに気が狂っているかということを、いかに私が愚かで、彼らを諭すことができるほど聡くない無力、己の無知を思い知らされると、知っておきながら、自ら刃を持ち己の自尊心を傷付けるためだけに、社会は私を理解し得ないし、いかに私が自分の生活範囲内だけで安寧を獲得していたとしても、その周囲で起こっている事柄は常に絶望にあふれているということを確認させるためだけに、私は彼らと対峙する。


いつの日かジェンダーの神が私の手を取り、この世に跋扈するのは絶望だけではないと教えてくれる日を夢見ている。いつの日か私がジェンダーの神の啓示を聞き、私の内なる才を開花させ、この世に絶望を蔓延らせている彼ら男根の耳を傾かせ、我々の福音を響せ、希望の世を作り出せたらと夢見る。私はそれまで、ただ夢見るだけで、己の愚かさを研ぎ澄まして自分を傷付け、社会への精神の門戸を堅牢に閉ざすためだけに、彼ら理解なき男根との邂逅を試みる。
この茶番において私は、情け無き世が理性を失したきちがい女の涙と一笑に伏すところの哀れなパフォーマンスをする。確認するまでもなく、私は誰より愚かだった。


あなたがたに人間の心が少しでも残っているのならば、あなたの目の前の人間は何にそれほどまでに傷付いているのかを考えよ。あなたに微塵の罪悪感もないのならば、目の前の罪なき人を傷つけているのは、ともするとあなたに与えられた特権なのかもしれない。その人を傷付けたくないと考えるほどの心があなたに残されているのならば、その特権とは何かを考えよ。あなたの目の前で愚かしくも「女々しい」パフォーマンスをやってのける人は、何に絶望しているのかを想像する、その寸分の時間を惜しんでくれるな。
ジェンダーの神よ、なぜこれほどまでに愚かなる私を試す。なぜ彼らを見棄てる。道をお示しください。道をお示しください。

余生は楽しい

どうせ死ぬんだからもう絶対に嫌なことはしない。そう決めてからわりと経った。こんなに安らかな気持ちで日々を過ごせたことはない。嫌なやつとはなるべく話さないで、私の精神を分かっている友人とだけ話す。嫌なものは見たくないからなるべくニュースも見ない、配信サービスの映像コンテンツを主にみる。肉親が嫌になるときもある。だから自室を掃除して居心地よくして、いつでも引きこもれるようにした。

堕落するかと思ったらまったくそんなことはない。心安らかで、ひとに優しくできる。むしょうに募金や贈り物をしたくなる。

 

とはいえツイッター、路傍の男根、外にいても家にいても息をしてるだけで憎悪をかきたててくるものには事欠かないので、意識の根底には底なしの絶望がまだ転がってるけども、この憎悪が酒の肴になり、私の口を軽快に喋らせることもあるので、そもそもこれを無しにしするような根本解決はこんな世の中じゃ、POISON、無理。

 

思えば結構長い間「人が好き」て嘘をつき続けたよな。高校、大学、自己紹介、シュウカツのPR、あらゆるところで自慢げにそう主張したよな。「社交的」って自己催眠をかけなきゃ生きていけないぐらい社会がクソだから仕方がないよ。人なんぞ本当は嫌いだし恐ろしくてたまらないよ。でもその真実に直面したら自我が崩壊して、クソ社会における人生とかいうクソゲーを続行不能なことをわかってたら、そりゃ嘘もつくよ。

長くかかったけど、やっぱり他人はこわいし憎いぞということを認められてよかった。ポジティブで活動的な善人たれという自己催眠をやめられてよかった。

私は人が嫌いな出不精だけど、今でも変わらずよい人間だ。それがわかってよかった。

朝、というほど早くなくても、まあまあのんびりした午前中に起きて、ゆっくり朝ごはんを食べて、ゆっくり化粧などの身支度を整えて、それでやっと外に出て、「ああ、私はこれからどこへでもいけるんだ」という気持ちになりたい。私は自由だから、どこに行っても、行かなくても構わないんだけど、どこへでも行ける格好を整えて、改めてその自由を味わいたい。

3/9が国際ウィメンズデーでした

先日インターナショナル・ウィメンズ・デーのマーチに参加した。神宮前から渋谷まで一時間ほどかけて歩くものである。赤色のものを身につけ、また米国でのマーチで爆発的に広まったプッシー・ハットを身につけて連帯した。300人も集まったという。心強かった。先導車を前にコールして歩くのは、いかんせん古めかしい運動のにおいも漂ったが、太鼓をどんどこ鳴らしてやるものでもなく(先人たちを否定するわけじゃないが、今時分はどうにも太鼓ドンドコで声を合わせてコールというのが、ださくかんじてしまっていけない)一人ひとりが主張したいプラカードや旗を掲げて歩くのは心身によいことだった。私も何か主張したいことを書いて掲げていけばよかったと思ったが、テーマを「女性」と広く括ったとき、一言に主張をまとめろと言われても無理と気付いた。
現場にやってきたインタビュアーの女性が我々に聞いた。「何を変えたくてマーチに参加されたんですか」一緒に歩いた聡明な友人が代わって答えてくれた。「えっ?何もかも」その通りだ。ジェンダーギャップ指数で生き恥を晒し続けるこの国で、何から主張していったらいいかわからない。おまけに社会の態度は無関心か無理解かである。言いたいことが多すぎて、同志の無念が私にのりうつって、結局口をついて出るのは怒りと絶望だ。主張たりえない。

マーチで繰り返しコールしたのは「マジでやばい!」「マジでつらい!」だった。保育園落ちて、マジでやばい。賃金安くて、マジでつらい。セクハラ・パワハラ、マジでやばい!こう声を合わせて歩いた。確かに現状はやばいしつらい。ただこのコールにさえ抑圧された女性性を感じると言ったら私はビョーキだろうか。みんながそう思ってるとは言わないが、少なくとも私は今でも思っている。「日本死ね!」。そうだよ、日本死ね!満腔の怒りと深い絶望が絞り出した断末魔だよ!
しかしそう発したが最後、また表現が不適切とか、「母親としてどうなのか」とか、主張を一ミリも理解していないうすら馬鹿どもに揚げ足を取られる。命と尊厳が危機に瀕していても、私たちには、こんなかわいい抵抗しか許されていない。

マス書いてる

今さらなんですが、特に訴えたいことや変えたいこと、使命などがあってここにこういった文を書き連ねているのではなくて、私はバカですから、人に話したり、こうやってだらだらとものを書いたりしてやっと自分の思考が整理できるのです。
そして何人かの友人には申しましたが、鬱病に筆を折られてはや3年、自分の日本語運用能力に、親に膨大なお金をかけてもらい四年制大学の文系学科に通わせて頂いた身分として恥ずかしいほどの凋落を感じたのがもうひとつの理由です。たいていの文章読本は、どんな瑣末なことでもどんな駄文でも構わないから、文章は毎日ドンドン書けといったことを主張しているものだから。とはいえ、毎日は無理に決まっている、私は飽き性だから。
自分のためのブログです。この建前を、はしたねえ上の口が述べながらも、時々波のように押し寄せる自己承認欲求の奴隷になる。ふとした時に、私が評価や感想をあなたたちに求めたことがあったら、謝りたい。いや、あったのだ。すまなかった。許しておくれ。